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アジサイの小さくて大きな物語…。
「ハイドランジャ・オタキサ」って知ってましたか。あじさいの学名なんだそうです。「オタキサ」は「大多喜産」と思いたいところですが、そうではなくて「おタキさん」に由来するものだとか。じつは名付け親はシーボルトです。
シーボルトは1823年(文政6年)、オランダ東インド会社の商館医として、鎖国中の日本で唯一西欧に開かれた窓口である長崎・出島に派遣され、着任3か月後に16歳の日本人女性・楠本タキさんを妻としました(シーボルト28歳)。
しかし6年後、愛娘おイネ(のちに日本最初の女性医師になる)と3人での出島の暮らしにピリオドをうつ事件がおきました。「シーボルト事件」です。伊能忠敬のつくった国禁の日本地図を持ち出したとして、スパイ疑惑をかけられ日本追放となったのです。妻子を国に連れて帰りたいという願いも、当時の日本の法律によって叶いませんでした。(当時はまだ地図を美しく印刷する技術が無く、正確な地図は秘密情報であり美術品だったらしい)
シーボルトは、ドイツ・バイエルン州の医学者の家に生まれました。大学の医学部では、医学ばかりでなく、動、植物学や民俗学なども学び、日本に滞在中には本業のほかオランダ語の通訳をし、一方、絵師川原慶賀や、全国から西洋の学問を学びに来た学者たちの協力を得ながら、日本の調査・研究を行い、その成果をヨーロッパに紹介していました。「give
and take」の精神です。
ヤブツバキ、フジ、ヤマアジサイなど沢山の植物が、こうしてオランダに送られました。
帰国後、シーボルトは自著「日本植物誌」のなかで“あじさい”のことを“Hydrangea
Otaksa”と紹介しました。“あじさい”は日本が原産地で他の国にはありません。したがって学名をつける必要からHydrangea
Otaksaとしたわけですが、このOtaksaこそシーボルトの日本妻「おタキさん」なのです。
シーボルトは「おタキさん」を、実際には「おたくさ」「おたきさ」と発音していたそうです。日本から持ち帰った“あじさい”に名付けるとき、きっと日本の彼女を重ねたことでしょう。
それにしても日本から持ち帰った数ある花のうち、なぜ“あじさい”が「おタキさん」なのでしょうか。色の移り変わりを感じてのことでしょうか。
シーボルトもおタキさんも、のちに別の人と再婚しますが、帰国後も出島と通じて手紙のやり取りをしていたそうです。二人の愛情は会えなくなっても消えることはなかったようです。
ドイツ・ミュンヘンにあるシーボルトのお墓は、日本の石塔をもとにしたデザインで、碑銘には「日本研究家」の文字が刻まれているそうです。
当時からイギリスをはじめヨーロッパの大国では、その植生の貧弱さから世界中の植物を収集することに熱心で、国策として「種」の研究に取り組んでいました。今では遺伝子の研究などで世界のリーダーに君臨しているイギリスや、やはり国策として花の開発に威信をかけてきたオランダなどの国々が、こうして一本の糸で結ばれてみると、シーボルトとおタキさんの物語はその原点を紡いでいたようにも思えます。
地球上で花を咲かせる植物の1/10以上を集めた英国王立キュー・ガーデン(ロンドン郊外)や、10年に一度開催される世界最大の花のイベント「フロリアード」(オランダ)を、今では数万人の日本人が訪れると聞きます。
学名「ハイドランジャ・オタキサ」も、今ではすっかり改良され、鮮やかに展示されているはずですが、その原点は、養老渓谷にもたくさん自生している「タマアジサイ」であることを、ヒソカに知っておいていただけたらな、と思うこの頃です。
シーボルトがオランダに持ち帰ったアジサイはライデンの博物館の庭に咲いています。またオランダに渡ったアジサイは、改良されハイドランジャ(西洋紫陽花)となりました。
最近は学名:アジサイ科(Hydrangeaceae)アジサイ属(Hydrangea)に分類されているそうです。Otaksaの名は消えてしまったのですね。
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