|
弘文洞
養老渓谷の中ほど、大多喜町麻綿原(まめんばら)に発した蕪来川(かぶらいがわ)に合流するところには、昭和54年(1979)5月に雨水の浸透と風化で天井部分が崩れるまで「弘文洞」と呼ばれる岩のトンネルがあった。
ここは蕪来川の蛇行部分を水田にするために江戸期に行われた工事(蕪来川と養老川を直線で結ぶ)の結果できた高さ約30mの洞門であった。「弘文洞」の名は「大友皇子(おおとものみこ)」(弘文天皇)に関する伝説が上総地方に多いところから付けられたもので、名付けられたのは明治以降のことである。なぜならば「弘文天皇」という称号は明治3年(1870)、明治天皇によっておくり名さえれたものであるからである。
大友皇子(おおとものみこ)と壬申の乱(じんしんのらん)
大友皇子は天智天皇の皇子で後継者と目されていたが、父、天皇の死後、天皇の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)と対立、壬申の乱(672年)で大海人の軍に敗れ、山前(やまさき)で自害、その首は不破の大海人の軍営に運ばれたと歴史は伝え、皇位継承をめぐる内乱に勝利した大海人はその翌年、飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位し天武天応となる。
また伝説には大友皇子はのがれて、ひそかに東国へおもむき、蘇我氏とともに再起をはかったともいう。その東国の地というのが上総の国の小櫃(おびつ)の里であるというのである。
久留里線の沿線には多くの伝承池あるいは地名が今数多く残っている。白山神社・十二所神社・丸山古墳などである。次にいくつかの資料をかかげます。
(資料1)俵田神社 (資料2)飯給村とあわもり・蘇我殿の田植え

弘文洞跡
|